私が入学したのは昭和36年でした。学校名は農業講習所といいました。場所は現在長野市若里公園や県民文化会館のあるところです。昭和47年以前の卒業生であればすぐ分かることと思います。このころの農村は食料増産から選択的拡大へと移行する時代、所得倍増や農業基本法が制定された希望に燃えた時代でした。寮は一部屋12畳で先輩と後輩の4人の相部屋、先輩はいろいろと教えてくれました。例えばインキンタムシにかかった先輩に「お前はどうだ」と言われ「大丈夫です」と言ったら「稲なら奨励品種になれる」と言われ、「どうしてですか」と質問したら「耐病性に富む」などと教えてくれました。4人でプライベートの時間がないのではと思いますが、諸先輩の知恵で各自押し入れに机とスタンドを持ち込み個室を作り、試験の前などはそこで勉強をしました。風呂は共同風呂で男と女が早い時間と、遅い時間と交互で時々間違えて慌てて帰ってきた人もいました。夜食としてよく食べたのは近くのパン屋から出るくずパンと、このころで始めたインスタントラーメンでした。今思えばこの時代の学生はよく勉強したと思います。学校の指導方針は農業指導者養成でした。4学科で同期生は農業15名、畜産12名、園芸10名、生活15名、計52名、就職先は農林省(現在農林水産省)8名、長野県20名、市2名、他県職員12名(主に生活科)、JA等10名、特に生活科の学生は全員生活改良普及員となりました。一部屋4人の共同生活は社会人となるための貴重な体験でした。今の自啓寮は一人一部屋冷暖房付きですが、残してほしい制度でした。時代の流れで仕方がないとは思いますが残念です。社会人になっても寮で培われた絆は変わることなく、同期の友と声を掛け合い、年末年始は休みを取りよく海外旅行をしました。昭和42年まだ本土復帰してない沖縄の離島宮古島は12月でも暖かく穏やかで、海と空は青く水平線のかなたで交差していました。これを皮切りに渡航歴11回(アジア、ヨーロッパ、オセアニア、アフリカ、北米、南米)、これらの旅は一生の思い出となりました。さて現在80歳となりコロナの関係もあり毎年開催していた忘年会もこのところ一休みしているところです。ではまた、皆さんお元気で